砥ノ粉の原石は極度に風化した粘板岩、頁岩でその速度によって色目が変わることを利用して赤色・白色・黄色の砥ノ粉を製造しています。京都山科の稲荷山より熟練した職人が選んだ原料を採掘搬入して、他にないこだわりの工程を今も守り製造しています。時間をかけて粉砕した砥の粉を「二度網」に通す工程は弊社独自の製法で、最初は120メッシュの網、二度目には150メッシュの網を水と共にくぐり抜けた砥の粉だけを酒造りにも使われている大きいホウロウタンクで沈殿させて製造しています。今でも漆下地職人さん、神仏具職人さん、家具職人さん、宮大工さんと「ほんまもん」にこだわる《匠》と呼ばれる皆様方に幅広く使われています。最近では東本願寺、西本願寺、清水寺、平安神宮、日光東照宮などの数多のお寺や神社などの文化財修復に無くては成らないと言われ弊社の砥之粉を使って頂いています。
弊社の赤砥の粉は《ぬしや向請合》として90年以上の歴史と信頼を職人さんより頂いています。
「ほんまもん」の砥の粉を通信販売もさせていただきます。 《匠》と言われる職人さんに愛用して頂いている砥の粉を日曜大工や木工芸をされている方々向けに小袋入りにして各種砥の粉の通信販売もおこなっています。
京都の東の玄関口として、三方に緑豊かな山に囲まれた京都市山科区の歴史は古く縄文時代までさかのぼります。昭和44年地元の高校生により発見された中臣遺跡は当時の山科での暮らしの様子が窺われます。このように山科の歴史は古く、京、洛中とは違った独自の文化、歴史を育んでまいりました。
全国的に、「山科」で連想されるものとして、仮名手本忠臣蔵九段目「山科閑居の場」であり、赤穂義士大石内蔵助良雄が討入りまでの間、隠れ住んでいたことで知られるこの西野山の地には、大石公をご祭神として大石神社が祀られています。
そして、西野山の地において、日本の需要の100%近くを占めるのが、山科特産「砥之粉」が挙げられます。この地には砥之粉の原料となる土が豊富であり、伝統工芸品の漆器をはじめ木工品には必ず砥之粉が用いられ、日本が世界に誇る伝統工芸品の美しさを演出する陰の主役といわれ、木材だけでなくレコード盤の素材、また学校教材としても広く親しまれてまいりました。昭和30〜40年には30軒以上の製造所がこの地にあり全国各地に出荷され、西野山を歩くと、でき上がった砥之粉を丸く団子状に棚板に並べて乾燥させている光景があちらこちらで見られました。
近年天然漆器に代わってプラスチック漆器が多量に出荷されるようになるなど、砥之粉の需要が少なくなっていることは大変寂しく感じられますが、伝統工芸品をはじめ本物の価値が見直される時代を迎え、山科の産業、文化を支えた「山科特産砥之粉」が再び全国に発信し流通することを願ってやみません。
大石神社 宮司 進藤秀保
※大石神社の手づくり「土鈴」にも弊社のとのこを使って頂いています。
原料の石は手に持つとボロボロ崩れる頁岩(けつがん)で、西野山、稲荷山の山側で採掘され、トロミル式鉄円筒粉砕機に原料の石と粉砕用の石(チャート礫)と水を入れ回転させ、10〜12時間かけて細かい粒子にします。さらにタンクに移し替えて、水を加えながらろ過と沈殿をくり返し天日で1〜2ケ月干してようやく出来上がります。